ぱけちゃん、おしゃまなの。

ふざけながらも世間を切るんだ、はてなブロブ版

フォラットコーデット・レットオクトーバーを追え

さぁ、今日の出来事だ。
午前中に涼しかった札幌であったが、昼を過ぎたあたりからめちゃくちゃに暑くなってきた。ここ2年ほどとんでもない冷夏で大変であったけれど、暑ければ暑いで不満の一つも言いたくなってくるものだ。さすがに、我が家のハムスターたちも暑さが応えているらしくぐったりと、なるべく体を長くして面積を稼ぎ体熱を放出しようとしている。そういう姿が非常に不憫に思えるので、かみさんが保冷剤をタオルで包んで巣である水槽の下に敷く。そうすると、めざとく床がひんやりする事に気がつくのか、その場所でべったりと、できたての餅のように伸びてへばっている。ハムスターも人間と変わらないもんだ、とオイラはネズミ男のような鋭い目をして奴らを観察した。ブンブン・ブラウの管理人もビックリだろう。
その後オイラもハムスターたちと同じようにグッタリとしていたのだが、2時過ぎくらいにかみさんが
アイス食べた〜い! ドライブした〜い! ヽ(`Д´)ノ ぅわ〜ん!
と、騒ぎ始めたので希望を叶える事にした。俺たちは日産マーチK12に乗り込み、エアコンのメモリを最大にし出発する。いつもの事だが、マーチのエアコンは送風を最大にしてもどこ吹く風だ。多分、エアコンユニットだけは南極仕様がやってきてしまったのだろう。俺は運転席に座る時だけはミヒャエル・シューマッハになりきる。アゴを前面に押し出し、炎のような走りでアクセルを踏みつけ、ステアリングを素早く、しかし丁寧に一発で決める。西岡のどん詰まりのあたりから、紅桜公園方面へ入り、伸びていく道なりに進みやがて国道230号へ合流する。
まず最初の目的、アイスクリームを「アイスの家」で軽くこなす。いつもながら、ソフトクリームは最高だ。俺はハンフリー・ボガードのように渋く決めながら、口の周りを汚して平らげた。ズボンを見たら、溶けた物体が下から垂れてhappy birthdayの文字を描いていた。…まぁ、いいだろう。
そして、定山渓方面へ中嶋悟の納豆走法のように粘っこく車を走らせる。ふと、右手を見ると前々から気になっていた建物、道路資料館が目に入る。オイラは1991年のサンマリノグランプリ、フォーメーションラップでいきなりスピンしたアラン・プロストのように華麗にスピンしながら駐車場に入る。世界はスリルに満ちているぜ。
ここには、北海道の道路を中心とした色々な資料がある。おそらく、巨大建造物、道路建設マニアのオイラとしては、一日中そこにある資料に目を通したいところだが時間がないので断念した。ウキウキと資料を物色していると、かみさんが奥にあるドライブシミュレーターの順番待ちをして、よだれを流している。小さい子供に交ざって待っている姿を見るとなんとなく、トホホな気分がしたが生暖かいまなざしで見守ることにした。しかし、どうやら単一の家族でその子供達が占領しているようだった。そのうち、かみさんがぶち切れて蝶野正洋張りのヤクザキックをかまし始めたので、あわてたオイラはフルネルソンをかけてかみさんを制し車に引き上げた。正直、ヤクザキックは大人げないと思ったが家族同士で公共の施設を占領するマナーの悪さには閉口した。
気を取り直して、中山峠頂上まで車を走らせる。途中、旧道らしき道が目に入り廃道マニアのオイラとしては探索したかったが、クマよけセットを持っていなかったので今日はあきらめた。ちょっと最近クマとの因縁浅からぬからな。頂上に行くに従い気温が下がってくる。うちら夫婦は、グラディエーションのように段々とさわやかな表情になっていった。頂上、道の駅、望羊中山に到着する頃には、下界では絶対に口にしたくなかったであろう名物揚げ芋を心待ちにするくらいだった。そんなわけで、うちらバカ夫婦は小躍りしながら揚げ芋ゲットに走った。うー、結構混んでるなぁ。揚げ芋を作っている現場をおさえるのは、オイラが七曲署捜査第一係で生き物係をしていた時以来だが、いつ見ても見入ってしまう。大量の油の池にプカプカ浮かぶ大量の揚げ芋…。なんとなく、今や懐かしいみかん星人の釜ゆでを連想してしまう。そして、揚げ芋をゲットして車の中でパクついた。
帰りは、エンジンブレーキを効かせながらのんびりと帰る。不意に出没すると言われる白バイに捕まったら大変だもん。家に帰る途中、そうだベースを直すためのスパナを手に入れようとビバホームに立ち寄る。目的のものはあったが、サイズを測ってこなかったな…。そうなると、セットで買った方が良かったのだけれどそこまでの財力がないのであきらめて、ヘルメットコーナーで遊んでいた。
それにしても、中山峠が別世界であるように下界は暑い。何もする気力がわかないので、残りの「beatles gear」を読破する事にした。
日本やマニラを含む最後のツアーでひどい目にあってゲンナリしたメンバーは、コンサートを開催する事を一切やめ、レコーディングアーティストとして活躍し始める。まぁ、ZARDの走りみたいなもんだな。棺桶と呼ばれた巨大なアンプの必要性が無くなり、出力が小さくても高音質のアンプを使うようになる。楽器に劇的な変化は見られなくなり、どちらかというとレコーディング機材やシンセなどの機材に革新を求め始めるメンバーだった。実験的な試みもたくさんある。切り刻んだテープを、ええいままよ!と放り投げ、掴んだものから繋いで利用するなんてものもあったし、録音したトラックを逆再生して利用したり、とにかく何かを始めよう!と言う感じてスタジオに篭もって作り込んでいたんだな。まぁ、引きこもりの走りみたいなもんだ。ところが、ジョージはシタールに興味を示したり、シンセを買ったり、ギターはオタクなので相変わらず集めたりしていたんだよね。で、ある時エリック・クラプトンからもらった赤いギブソンレス・ポール ルーシーが無くなったんだよ。このギターはエリック・クラプトンが「while my guitar gently weeps」でソロを弾いたり、とにかくジョージにとって特に大事だったので大騒ぎになった。とりあえず、ジョン、ポールとジョージの3人は一番最初にリンゴ・スターのドラムの椅子のクッションをまくったけれど、今回は無いんだよ。そして、長い間捜索している間に、どうやらそのルーシーは盗まれていて、メキシコあたりで売りに出されているらしいと情報を掴む。で、ジョージは電話をするんだよ。盗んだギターを素性も解らず手に入れて、売っていた店主は回想した。
「いやぁ、いきなりショージ・ハリソンですと特徴的なイギリス訛りの紳士的な落ち着いた口調で電話を受けた時には、思わず新潟訛りの新沼謙治から電話が来たのかと思っちゃったよ」と、笑って話す。そして、ジョージは盗まれたにも関わらず金を払ってもいいと申し出たが、店主は考えた。翌日電話すると、メモに残して…。そのメモは今でも残っている。内容はこうだ。
「ジョニーが来たなら伝えてよ、2時間待ってたと。割と元気良く出ていったよ、と」
このフレーズが日本で流行ったのはそれから10年くらい先の事だったけれど。
話を元に戻すと、翌日店主は電話してこうもちかけた。このルーシーを返す代わりにオマエのギター2本とベース2本とで交換だ、と。まぁ、身代金誘拐事件の走りみたいなもんだな。で、ジョージは「そりゃ多すぎだ。1本ずつだ!」と主張しあっさりと合意させた。やっと愛する彼のギターが梱包されて送られてきて、荷を解いたらその中からなんと、映画の撮影でスタジオを離れていたリンゴ・スターが現れて、唖然とするメンバーを尻目に自分のロッカーへと歩み寄り、やおら盗まれた筈のジョージのギターを取り出して、
「ゴメン。黙って借りてた。返すわ」
と、返されて一同脱力する下りなんて、アガサ・クリスティーもビックリのどんでん返しの醍醐味を感じたもんな。全く、最後まで凄いよ、ずうとるび
満足して、読み終えたオイラはこの5000円で販売されているこの本をゆっくりと閉じて物思いにふけった。歴史は夜作られる!と。
で、ネットをしながら5時半に放送されるというF1ドイツグランプリの予選の放送をまっていたが、2ちゃんねるの独身男性版(通称 毒男版)を読んでいるうちに眠くなり、あなぐらに潜る「うでむし」のようにもぞもぞ動いて寝た。正直、その頃やっと札幌が冷めていた。