ぱけちゃん、おしゃまなの。

ふざけながらも世間を切るんだ、はてなブロブ版

リビングウィル法 7 by 中崎ぱけを



「家」の中はエアコンの類など無くても、秋の心地よい風が入ってきて実に気持ちの良い環境だった。僕らは早速先ほどの事務所に入っていった。
「山木さん、先生からブドウジュースができたよ、と聞いたのですが。」
「あー、そうなのよ。今年のはちょっと凄いわよー。天気がね、ブドウには丁度良くて糖度も高かったの。ジュースももちろん最高なんだけれど、ワインも今年のものは歴史に残るようなできになるんじゃないかしら?」
「それは良いですね。何年か後の楽しみができました。・・・ちゃんと覚えておかないと。2017年もの、・・・と」
どうやら先ほどのブドウを出荷してワインを作っているらしい。地ワインの類かしら?
山木さんは、冷蔵庫から無骨な瓶を取り出してグラスにジュースを注ぐ。そして、我々3人分をテーブルに並べた。飲んでみるとこれが実にうまい。なんだか根本的に市販されているブドウジュースとは違う。
「これ・・・、何ですか? こんなジュース飲んだこと無いですよ。」
「そりゃそうよ。無農薬でみんなが一生懸命手入れをして、取れたての最高のできかもしれないブドウを搾ったままの最高級品だもの。」
そういって柏木さんは、笑った。彼女は、僕以外の人と一緒にいると良く笑うらしい。僕は夢中になってそのブドウジュースを飲み干し、かすかに残る甘みと良質なブドウ果樹園に漂っているような香りの余韻を楽しんだ。・・・そういえば最後に何かがおいしいと思ったのはいつだっけ・・・。
そして、事務の山木さんと僕は改めて挨拶と自己紹介をし、しばしこの施設で最近起こったおもしろおかしい話で歓談した。時間にして30分位だろうか? ゆったりと落ち着いて、しかもとても楽しいひとときだった。
「さて、それじゃ私たち、少し家の中を回って帰りますね。山木さんも先生もそろそろ忙しい時間でしょ?」
「あぁ・・・、そうね。もうこんな時間なのね。申し訳ないけれど、ここを離れるわけにいかないからここでさよならね。」
「はい、また来ますから。・・・彼はどうか、わからないけれど。」
僕らは山木さんに挨拶をして、事務所を出た。事務所を出た瞬間、彼女は忙しそうにパソコンを操作し、なにやら先ほどまでとは別人のような難しい顔で画面を見て考え事をはじめたようだった。
「柏木さん。」
「・・・初めて名前で呼んでくれたわね。恵で良いわよ。あなたの方が年上なんだし。」
何となく気安い感じがしたが、今度名前を呼ぶ機会があったらそう呼ぶことにしよう。
「ここに入る前に行っていた『地獄との接点』と言う意味が全くわからないんですけど・・・。」
「・・・。言い方に語弊があったわね。ここは希望の場所ではあるの。でも、地獄と隣り合わせなのよ。」
彼女の視線は真っ直ぐ前を見据える。
「それを今からあなたに見せるから。」
僕は、おとなしく恵さんの後をついていく。まるで、飼い慣らされた犬のようだな。彼女は猫みたいだけど。そんな風に感じた。
時折廊下ですれ違う人たちに、恵さんは礼儀正しく、且つ親しげに挨拶をしていった。怪訝な表情で廊下を歩いていた人たちも彼女を見ると表情をゆるめ、やぁ元気とか、いつもお疲れさんとか、声をかけていく。僕はその度に彼女に遅れて所在なげに彼らに軽く会釈するのみだった。
昔懐かしい、板張りの廊下、南側に設置された窓からは秋の涼しげな日差しが入り、暮すには快適に思えた。やがて、彼女は階段を上り2回へと向かう。僕も気後れを感じながら、後をついていく。2階に入った瞬間空気が豹変する。そこは今まで通り過ぎてきた空間とは明らかに質が異なる感覚であった。20位のドアが廊下に沿って並んでいただろうか。すべてのドアは閉まっており、僕らが歩いてきしませる板張り廊下の音だけが当たりに響いた。
「やっぱり、たった1ヶ月なのに随分人が入れ替わっているわね・・・。」
恵さんはドアの横にある小さな厚紙で作られた表札を見ながらつぶやいた。
さっぱりわからない。ここはいったい何なんだ?
廊下の突き当たり。そこは図書館のような場所で壁にはいくつかの集合写真が飾られ、書庫にはアルバムのようなものが沢山納められていた。いくつかの工芸作品が飾られており、その横には作者の写真と日付が付されていた。彼女は、窓際にあるテーブルセットに座り、僕にも座るように目で合図した。
「さて・・・」
彼女は、そういって何から話そうか考えている様子だった。僕は彼女の向かいに座り、言葉を待つだけだ。
「ここは記憶の部屋と呼ばれているの。」
「記憶・・・、の部屋?」
「そう。メモリアルの意味の記憶。」
開け放たれた窓にトンボがやってきて、しばし羽を休めてから再び飛び去っていった。おそらく、わずかな時間だけれど僕にはとても長いものに感じられた。
「ここに居る人たちで、伊里中先生と元看護師の山木さん以外は、すべてリビングウィルを申請した人が住んでいるの。」
リビングウィル? 何故? 何故ここでリビングウィル
リビングウィルを申請した人がどうなるか、あなたはきちんと理解しているかしら?」
「・・・多分。それについては通院している病院の先生からも聞きました。恵さんにも区役所の窓口で説明を受けました。」
「そう、その通り。リビングウィルの対象者となった人は、一切の延命治療行為、そして社会保証のシステムから切り離される変わりに、消費税やその他の税制納付も免除される。おまけに苦痛緩和の治療に関しては無料で受けられるの。」
「・・・はい、知っています。その後者のメリットのおかげで当初は治る見込みのない末期症状の患者のための制度だったのが、ニート然とした若者や、ホームレス達も申請するようになって一般的な制度として定着しました。」
「そのとおり。」
彼女は続ける。
社会保障制度から外されると言うことは、病気になっても保険診療を受けることができないし、病気以外にも怪我で体が不自由になっても何ら治療を受けることができなくなると言うこと。つまり、彼らは緩やかに死んでいくしか道が無くなるの。」
僕は黙って、恵さんの話に集中した。
「多くの人は、病院近辺でたむろして、痛み止めや麻薬同然の苦痛緩和剤を投与されながら次第に体を弱らせ死んでいくわ。」
その通りだ。現代の一度「正しい富裕層」のレールに乗れなくて、希望を失った人がこの制度の大半を占める。
「けれども有志が立ち上がり、その状況を良しとしなかった。そして、この施設が立ち上がったの。さっきも言ったとおり、行政からは一切の補助金が下りないから、この手の施設はほぼ寄付金と、入居している人の自給自足で成り立っている。・・・それでも、まったく数は足りないわ。」
そんな話、初めて聞いたぞ。
「工藤製作所の社長もスポンサーの一人。社長の奥さんは気が付いた時には末期の子宮ガンだったの。今でこそ日本屈指の技術を持った企業になっているけれど、その当時は一塊の町工場の一つでね。資金繰りにも苦労していた。そんな中、彼女は自分の治療費で社長に負担をかけたくないという思いで、ガンのことも告げず、一人でリビングウィルの申請をして、その半年後に亡くなったわ。」
・・・酷い話だ。
「社長はそれが悔しくてね。一時は工場も閉鎖状態になりそうになったのだけれど、何とか持ち直して新しくて誰にも真似のできないような技術を開発して今の工藤製作所があるの。そして、当時の悔しさと制度への怒り何でしょうね・・・。定期的に多額の寄付金をここに提供してくれているの。」
その話でやっとここと工藤製作所のつながりがわかった。
「ただ、ここは誰でも入れる訳じゃないのよ? 知っての通り、リビングウィル申請者の数はあまりに多すぎる。そこで、伊里中先生がここの入所を希望する人を面接して、心からリビングウィルの適用に後悔し、そしてこの制度のあり方に関して反対の意を示し、やがて自分は死んでいくけれど、いま死に瀕している人のために協力を惜しまないという人を受け入れているの。・・・先生も、悩んでいるわ。本当はすべての人を受け入れたいのに、って。」
テーマがあまりに重すぎる。にわかに受け入れがたい真実である。
「それに、伊里中先生。疼痛緩和のための医療報酬って一切受け取っていないの。この制度を肯定するような報酬は受け取れないって言って。・・・頑固なのよね。普段はあんな風に穏やかに見えるけれど。」
僕の知らないところで、知らない闇の渦が渦巻いている。先の財政破綻の時に富裕層に重税を課して、数多くの日本人の海外流失があったが、それを食い止めるために貧困層を犠牲にして成立させたリビングウィル法・・・。
遠くから、苦痛にうめく人たちの声が聞こえはじめた。おそらく鎮痛剤の効果が切れ始める時間なのだろう。地獄との接点。その言葉の意味を僕は理解した。それと同時に、数少ない有志が込めた「最後の希望の家」というこの施設の名前。
「恵さん。あなたは何故僕のリビングウィル申請を躊躇わせ、この施設を見せ、僕に考えさせるのですか?」
単純な疑問だが僕は思いきって尋ねてみた。
「私の仕事は、まだやり方次第では何とでもできるあなたのような人の道案内。」
・・・何とでもできる。・・・本当にそうなのだろうか。
僕はしばらくその『記憶の部屋』の中の作品を見たり、アルバムを引っ張り出したりして、おそらく亡くなった日付なのだろう、日付が付された人々の写真を見続けた。
「さて・・・。」
彼女の口癖らしい。
「帰るわよ。私ができるのはここまで。あんまり暇じゃないの。」
そして、僕らは再び恵さんの軽自動車に乗って元の街へと帰っていった。来た時とは違って、その自動車の爆音は全く気にならなかった。おそらく彼女も色々なことを考えているから、そんな些細なことなど気にならないのだろうと僕は感じた。