ぱけちゃん、おしゃまなの。

ふざけながらも世間を切るんだ、はてなブロブ版

マシマロは関係ない。本文と関係ない。

昨日は氷が半分溶けた路面状態に苦労させられたのだが、今日はぐっと冷え込んで一度緩んだ氷が再び凍結。さらに、パウダー状の雪が氷の上に乗り今日の出勤帰宅時も阿鼻叫喚。神がおわすのならば、なかなか人間に楽はさせてくれないらしい。


さて、気が付けば今の職場で働くようになって4ヶ月が終了しようとしている。ほとんど滑り込みセーフ的に潜り込んだのだけれど、今のところは生身で世の中の腹黒く渦巻く人間模様に晒される事がないため、気持ちとして楽である。それなりに勉強しなければいけないし、努力もしなければいけないのだけれど、それはそれで半分趣味みたいなものだし、少なくとも「欲しくない」と言っているお客にあの手この手で買ってもらおうと右往左往するあげく、上司に文句を言われるような生活よりはちょっとばかり自由度が高い。
仕事に上下左右、優劣などあってはいけないと日々オイラなどは考えるのだけれど残念ながら事実としてそういう傾向はあるようで。とりあえず、人生も折り返していると思うし続くだけ続かせて給料がもらえて食えていければとりあえず御の字だ。幸せのハードルはドンドン下がり続けるのである。たとえ、そのことが日本経済を冷え込ませる事となったとしてもそんな事はオイラの知った事ではない。


実質ネット上への書き込みというのは、大学時代のある習慣が原始体験となって、物書きへのあこがれとたまたま目にしてくれた人には存分に笑えて、しかも考えてもらおうという意図を含み始め、鬱状態で失業に入ってから本格的に習慣化した。思えば、32歳の頃から患っている鬱状態。今や何が「良い状態」で何が「悪い状態」なのかも区別が付かない状態である。それはある意味精神安定剤抗うつ剤、それに睡眠導入剤との3点セットでごまかし正確に「自分の生活と向き合う」事を避け続けてきたせいなのかもしれないし、そもそも今の世界の状態は「幸せを感じるのに足る」状況であるのかもわからない。
例えば戦時下にある国に「幸せはあるのか?」と問いかけたとしても、日常レベルではささやかな幸せがあったとしても、それが全体から見渡した場合に「本当に幸せなのか?」という疑問が湧いてくるのと同義である。
同じ生活をしていたとしても(実際はそんな事あり得ないが)その人のおける状況や過去の経験、感じ方によって幸せも不幸せも表裏一体である。肉親の死を悲しむ人がいる一方で、転がり込む遺産にほくそ笑む人だって居る。それは、個人の生活であり相対的に善悪を定義できるものじゃないのかもしれない。それでも、オイラは一つ一つの出来事に心を痛めたり、ちょっと楽しい気持ちになったりする。
それらを文章として表現しているのがこんな書き込みなのだろう。深い意味とか、社会的な意義なんてそもそも存在しないのだろう。




さ、くそまじめな事ばかり書いているが、実は職場はネタの宝庫であり、提供したい話はたくさんあるのだけれど残念な事に「守秘義務」により90%を封印している現状である。そんな風に、書きたい事をあえて書かないと言う事をしているから、最近の文章は自分で読み返してみても、何か欠落していたり曲がっているような印象を受ける。もっと自由な表現が欲しいのだけれど、仕事に関わる以上多少の秘密は仕方がないのだろう。
ま、その内小出しになるだろうけれど。