当たり前に歳を取ることを立派だと思えることに気づくのは難しかったりした
何かと能力がない、と判断されると世知辛い世の中である。
そんなことは、昔からちっとも変わっちゃいなんだけど。
そんでも、自分が昔ほどいろいろなことを覚えられないな、と感じる歳になって
左様に感じるのである。
能力がない、と言えば
いつもネットじゃぁ老害とか言われるんだけど
オイラは母さんが若いときの子供だったので、肉親や祖父母が老いていく姿ということに縁もなく、親戚が亡くなるということもほとんど経験がない。
そんなところに、3月くらいまで自分で家を立てたり、月下美人を育てたり
庭の野菜をあらされないためアライグマとの死闘を繰り返していた爺さんが
あっという間に、寝たきりになってしまって少なくとも2週に一度
赤平まで会いに行っている。
会いに行っているが、週ごとに傾眠状態が顕著になり、
オイラを認識しているのかどうか、言葉もはっきりしない脳転移があるので
なんとも言えないんだけど、
別にオイラ、認識されてなくてもかまわない。
わかってくれて喜んでくれればラッキーだし、
痰が切れずに呼吸が苦しそうな時に、背中や胸をさすって
2時間程度、病室でぼーっとじいちゃん眺めているだけでいい。
何か気の利いたことでも話しかけられればいいのだけど
もとより恥ずかしがり屋でそんなに話す孫でもなかったし、
一人前に思春期とか反抗期とか、そんなんで随分顔を出さなくなった時期だってある。
赤の他人だったら、都合よく顔出してきたって意味ねーよ、とか言われちゃうんだろうけど。
で、そういう風に弱っているじいちゃんを見ていると
最初は、あんなにちょこちょこ何か作っている姿を見慣れているとショックだったりもした。
そんでも、段々と弱くなっていくというのは受け入れていけるようになったりもする。
かつてはどんな家庭も、そういう弱くなっていく肉親を見ながら
段々と覚悟が決まってくるのか、受け入れながら世間は続いてきたのだろう。
最近は、核家族はげしく、交流も少なく、
受け入れられなくなったり、反発したり、あるいは弱さと切り捨てたりする風潮が当たり前になっていたところで、
こんな生活をしていると、
弱かったりトロかったり、仕事がもたついている人に目くじらを立てるようなことも無くなったり、
物質的な欲求が引っ込んでくるようになってきたりもする。
人は弱くなっちゃうんだけど、
記憶の中の姿が台無しになっちゃうわけじゃないからな。
というわけで、見舞いはオイラも体力との闘いなのでしんどいんだけど
病室でぼーっと過ごす時間はわりかし好きなのである。
オイラが記憶も確かじゃない頃は、たくさん弱い孫をかわいがってくれたんだろうと思うと、そんだけで満足だ。