外に出て遊んでないと死んでしまう精神構造が後天的に獲得される場合があるとワタスは思う。
自粛という名の無責任な暴力に、ワタスは毎日心を痛めております。
もともと、心弱いからなぁー。
そんで、もっともらしく「なに! 今やらないと死ぬの!」とネットでも素人さんのインタビュー(仕込みかもしれないけど……)という言葉をこの数日何度も何度も反芻しているうちに思ったんだわ。
「そうだよ、やらないんと死ぬんだわ」
ということにたどり着いた。
……というか、死ぬまでやり続けるというか、武将は戦で死んで本望! 的な感じかしら。
世に一定数、じっとしていられない超アクティブな人達がいる。
ちなにみこの意味は2代目の意味合いの方ね。
かれらの行動を観察していると、おおよそ自粛が成立するとは思えない。もちろん病的なパチンコ依存症とか、精神病理に関わる内容はこの際専門家に任せるとして、パリピーの行動力の過剰さというのは、この世界総自粛強制モードの中においては、彼からいくら自粛していても、ちょっと目立ってしまうように感じる。
というか、その事によって彼らが命を落とすことがあっても、それは生き方や価値観の問題であり、後悔や事例を説いたとしても受け入れられることのない個性なんだと思う。
はい、ここで人権屋の好むキーワード個性、ダイバーシティ、多様性などぶち込んでみます。
また、死んでしまった人たちには申し訳ないのだけど、いまでも「DQNの川流れ」と検索するとすぐに1ページ内や、googleではキーワード提案してくる「玄倉川水難事故」が挙げられる。
当時は罵詈雑言、小馬鹿にさえする論調に自分も加担する側だったのだけど、はてさて、それから結構歳をとり、それが自己責任ではあるものの、関係のない人たちにまでバカにされ蒸し返され、避難されることでもないよなぁ、と最近は感じることのほうが多い。
自分の心に手を当てても、事故にならなかったけれど、度を越した遊び……今は目が悪いのでやらないがお車での悪い遊び、それも地味に厄介で真面目な取り組みだけど事故ると結果が悲惨な峠な人であったことを否定できない。
……車のパーツを交換するとか、カスタマイズするとか費用もぶっ飛んだことはさえしてなかったけど、自分では安全の範囲で走っいると思っていても、絶対的な基準として大きめの車とか、オートマ限定の免許取り立ての人がやってはいけないような速度域でカーブを曲がったり加速したり急停止したりなど、場所とものと結果がちがうだけで、水難事故と本質が変わらないように思っている。
マスメディアに大きく取り上げられたかどうかの違いだと思っている。
このことを考えると、得体のはっきりしない流感により特段の罰則や補償や政治的責任がない状態で「自粛」を求めても、それって強要で、人権屋の嫌う「個性つぶし」である。
だから、こういう価値観の違いを現状解決できるのは、パリピーと正義感偏執性の両極にある人達に限らず、村八分とか、それにブチギレた人が喧嘩や傷害事件に発展させてやっと「刑法」という法的拘束力のある対処ができるものである。
今日の結論として、はっきりしない首長は「刑法上に該当する事犯」に発展するまで我々に丸投げしている、とその意向を汲み取るべきなんだと思う。
違うのかね?