記憶は時に自分のモノじゃないみたいだ。
赤平の平岸病院に3日ほど寝泊まりし、
その後、線香を絶やさないように2時間毎に目を覚ます生活を1週間ほどしていた。
……夜の頻尿で目覚めることも役に立つ時があるものだ。
4月あたりの社会復帰前にじいちゃんのところに行ったら、
いきなり歩行器を使って歩いていたのでびっくりした。
足がうまく動かなくてころんだんだわ、とか、
肺にガンがあるんだわ、とか
そんな話を聞いて、まめに赤平に通い出す。
何しろ家のかみさんが大のじいちゃんファンだったし。
GWに家に行ったのが最後で、
その次からは病院に見舞いに行く事になった。
本人が脳転移を理解していたか今となってはわからないのだけど、
右半身が麻痺し、傾眠がつづくようになり、点滴で栄養を入れるようになり
顔を出しても、タイミングが合うとこちらをじーっと見ていることがあった。
先週火曜日、今晩もたないと連絡があり仕事を放棄して駆けつけると
そこからじいちゃんは24時間以上ずーっと目を開けてアチラコチラを見ていた。
うちの妹が子供を連れて行ったので、ひ孫初面会でもあった。
角度のせいかもしれないけど、ひ孫を見るじいちゃんの目尻はちょっと下がったような気がした。
うちら夫婦と泊まり込みでずーっと赤平で介護をしていたおばさん夫婦は、
消防団員もやっていたくらいのガッチリしたじいちゃんがだんだんとやせ細って
面影をなくす姿を徐々に見てきたけど、
急遽集まった親類は多分、控えめに言っても凄くショックだったと思う。
翌日以降、目を開けていたけど瞳のひかりは消えていき、ものの動きを追わなくなってきて、
最後はばあちゃん、娘三人、孫二人、孫の嫁一人に声をかけられながら息を引き取りました。
というか、死の瞬間というのはとっても曖昧で、死亡宣告を受けても、動いているような気がしているし、徐脈だけどモニタは反応しているし、
自分のことはともかく、親しい人の死というのは受け入れがたいものみたいだ。
生きている人は玄関から帰り、
亡くなった人は、地下の車庫から家に帰る。
病院というのはそういう風にできているんだなぁ。
悔やまれるのは、体力があるじいちゃんは、危篤宣告から3日ほど頑張ってくれちゃったので、パキシルを持参することを忘れてしまったせいで、
かなり離断症状に悩まされて葬儀に参加しなければいけなかったことである。
全くもってポンスケである。
……ヒュミラを注射する週でなかっただけマシだった。
ばあちゃんは老健に入所しているので、おばさん夫妻と飼い猫が主のいない家を守っている。
間違いなく、おばさん夫妻が一番つらい場所の近くに居続けており、
その苦労に恩を返す方法など全く代替の効かないものでもある。
これから四十九日まで、じいちゃんは色んな場所をうろちょろするんだろうな。
楽しんでほしいもんだ。
でも、足腰が悪いばあちゃんのために80歳で家を建て替え、
毎日老健に顔を出し、
今年も雪が融けたら楽に行けるように、三輪の電気自転車を注文し、
でも、家に届いた時には自分がもう乗れなくなってしまい、
おばさんがじいちゃんの見舞いに毎日使っていた。
ずっと呼吸が苦しそうだったから、胸をさするのが会いに行ったときのオイラのコミュニケーション方法だった。
……喋るのは苦手だからなぁ。
いつか、忘れていってしまう忘備録としてここに記す。