大晦日であり、月命日でもある。
1年。
みんなで共有できるどんちき騒ぎと労いの機会としておそらく確立されたのであろう正月。
ここのところ、そういう共有もバラバラになって適当に資本があるもの勝ちとして稼いでいたけど、思わぬ形で「みんなから呆れられて」渋々休みにした会社も多いのだろう。
個人的には思わぬ形で理想的な方向に振り子が振れ始めたんだけど。
そんでも、我が氷河期時代だけは未だに氷河期のままその一生を終えるのだろう、とある意味達観した感じて騒ぐこともなく、アピールすることもなく、
「サイレントテロリスト」として、金を使わず、右肩上がりに協力せず、ただ今の暮らしを平均的にちょっとずつ右肩下がりにすることだけに気を使う生活が続いている。
で、大晦日は大掃除、という本州や南国の価値観を随分昔に捨て去った札幌人のオイラは、わざわざこの糞寒いときに窓を全開にして掃除することもなく、
「掃除は、春先のホコリも静まった6月くらいにやるべし」
という家訓めいたものを心にもち、ただのんびりとするだけなのだ。
今年は何かと「縁」というものを考えさせられる一年であった。
縁により仕事生活に復帰し、縁により親族と悲しみを共有し、縁により別の職場に移動し、それなりに 「なんとかやれるかなー」という状態で過ごしている。
仕事と趣味が両立できる立派なパソコンを導入したし、
じいさんの遺産から母さんはギターをプレゼントしてくれ、それはとても心に響くよかのような音を出し、毎日弾かずにはいられない。
多分、今以上のお金があってもそれほど幸せな気分にはならないであろう、と感じる境地に達するところである。
懐かしい人にも出会えたし、新しい人と仲良く過ごすことの前向きさも感じ取ることができたし、
さぁ、オイラは来年はかつてそうであったかのように、自分の体力の限界内でピエロを演じて周りの笑いを誘って、それとなく楽しい日々を過ごすことができれば、それで満足。
政治ももう面倒くさい。
難病補助が減らされようと、通院しないければいけない。
給料が上がらなくても、ただ生きるだけが誰かの役に立つこともあるのだろう。
ということで、職場のビルの窓から地面を眺めるのも少しは減らし、もう少し空を見たり、普段見過ごしているような壁の四隅に目を向けてみよう。
それで、十分だというのが「前向きではない」と非難される筋合いなどもうないのだから。