ぱけちゃん、おしゃまなの。

ふざけながらも世間を切るんだ、はてなブロブ版

鬱が酷いから書いているだけで、遺書ではありません


「猫じゃらし?」 by Yashica Electro35 GS

一日の大半を下痢による体力消耗で寝て過ごしています。・・・ま、土日だからできることなんだけれどね。
平日は実に真面目に就職活動をしています。ていうか、もっと前からちゃんとやれよな、と言われても仕方ないのだけれど昔からギリギリにならないと真面目にできないみたい。そのおかげで随分と間違った選択も繰り返したような気がします。
後は、身辺整理というか、収入が無くなるのを考え、自分にとっては大事で必要なもので手放したくないものでも、需要がありそうで、値段が付いて、僕以外には役に立たないものを少しずつオークションで投げ売りするようになってきました。
そうなんです、僕は駄目人間なのです。


今日は、少し真面目なことを語ろうか。
はてなダイヤリーで色々なことを書く前は、ホームページビルダーを使ってマメに1ページ1ページ自分でサイトを生成して転送するという面倒なことをしていました。そのおかげで、随分とサイト構築のノウハウはついたのですけれどね。このブログのカンバンなんかも簡単に素材を組み合わせて作るし、オークションも画像は3枚までしか添付できないので、フォトレタッチソフトを使い、コラージュのようにたくさんの画像を組み合わせて、なるべく購買しようとする人に情報を細かく伝えようと努力したりもします。


さて、その今も放置状態で残る「随想の部屋」という僕のホームページのコンテンツにかかれているのかもしれないけれど、
僕は大学を卒業した24歳に、死のう、と高校生くらいからずっと思っていました。それは理系技術職になりたいと思っていたのに、あまりの数学のふがいなさにまるでついて行けず、何となく文系に流れた時から始まった思いなのかもしれません。
かろうじて大学時代は音楽と本当に良い人たちに出会うことができて、部活の中で燃えるような活動をしていたけれど、就職活動は当然やりたいと思っていた技術職につくこともできず、苦肉の策でIT企業に潜り込んでコンピュータを勉強して、PG、SEに転向しようと知恵を絞ったけれど、片手間でできるほど営業は生やさしいものではなく、数字を出すために残業の連続で精魂ともにつかれていましたね。その頃をさして僕は良く、
「手段が目的になっている」
とか、
「本末転倒だ」
などと言い訳をしながら、、やはり適当な人生を送っていたような気がします。
在学中だって、人と同じように失恋したり、恋人ができた後に実は本当に好きな人ができて、変な優しさを発揮してしまったためにあきらめて、とても残念な思いをしたり、当然英語なんて音楽をやるための手段だったので、単位を取るギリギリしか勉強しなかったですね。
・・・よく芸能人の話を聞くと、そういう話が出てくるのだけれど、僕には何か人に負けないほど集中したり、才能を発揮するようなものを見つけることはできなかったようです。
さ、卒業して仕事について、技術職の道も閉ざされた。PG、SEなんて考えると
「集中しろ、数字をもってこい」
という怒号の飛ぶ中、リミットだった24歳は、OBとして後輩の定期音楽会の賛助としてステージに上がることでモチベーションを保ってました。この頃を振り返ると、名古屋という土地は本当に好きだったんだな、と感じますね。
やがて、地元に送り返されるように札幌に戻った時は、本当に悲しかった。仕事は同じように続くし、むしろ平社員なのに所長の以内営業所。平社員なのに幹部会議のために資料を作るという「余計な仕事」を抱える日々。
思えば、鬱の芽はこの頃からはっきりとした形を伴って存在していたのでしょうね。地下鉄のホームを見るたびに、飛び込みたい衝動というのは確かにありました。
それでもリミットがすぎたにもかかわらず、友人が良いタイミングで励ましてくれたり、結婚やら出産やら、自分の結婚やら、首の皮一枚で生きながらえて来ました。そういう時は、
「オイラのような適当で駄目な人間のための神もおわすらしい・・・」
などと、冗談めかしてつぶやいたりしたけれど。


転職がガンだったと思います。
営業にほどほど失望して、全く関係のない業種を探し回ったのだけれど、自己都合でお金もなく、ボーナスなんかも出ないような会社だったので蓄えもない。およそ1ヶ月という短期間で転職を完了させなければならなかったのかしらね・・・。
結局は、再び「もう一度、コンピュータ技術職の道を・・・」という反省のない理由でITの営業についてしまいました。給与も良かったし。
ただ、ここでは非常に良くない人たちとの出会いがたくさんありすぎました。
退職する1年前に、鬱と診断され通院する事となり、薬の眠気でまともに頭も動かなかったし、指示されたことも覚えられない。上司に色々工夫しろ、と言われるものの、工夫自体が浮かばない状態だったからなぁ。かなり早い段階で、鬱のカミングアウトはしていたのだけれど、最終的にはかなり面倒な物件に捕まり、担当SEが退職して逃げられ、その調整にあくせくしている内に全く何もできない状態になって、やっとそこで上司が鬱と認識したと言う感じだった。・・・僕としては
「何回同じ事を言わせるのよ・・・」
という思いだったけれど。そして、傷病手当の手続きをオイラ抜きでとっとと進めてくれ、放り出された。


この頃、自殺したいという願望は毎日あったけれど、親の顔、妻の顔、色々浮かぶと決意が鈍る。そんなときは神様にお願いしたものです。
「そもそも僕という人間は存在してなかったことにしてください。」


2年のブランクが空きました。気が付けば34歳。リミットから10年も無駄に長生きしてしまった計算になりますね。割と生存本能というのは理性を超えた部分でしつこいみたいです。
介護職に就きました。就職した会社は半月で倒産しました。・・・運の悪さを呪ったものです。当然賃金が入ってこないため、慢性的な生計難が続くのですが、悪魔の誘いかパチスロで収入以上に勝ち続けてしまったために、楽に生きることを覚えてしまいました。
最後に待っていたのは、誰もがそうであるような負け込みと、生活の破綻状態でした。
介護職の給与が安いというのは、承知で、
「暮していけなくなったら愛知に車を作りに行く!」
と同僚に冗談でいっていたものだけれど、本当にそうなると割と切ないものがあったね。
愛知へ向かう飛行機に乗っていた時は、周りの人には申し訳ないけれど、このまま墜落しないかしら?と願ったものだった。
・・・なかなか悪運が強くて落ちなかったけれど。


工場ラインの仕事は、体だけ動かせば良いので、営業や介護に比べると明らかに単純で、気楽だったけれど、それでも取りおり襲ってくる酷い鬱の時には、ラインの間に落ちて挟まれることを想像しながら仕事をしていました。
そして、いわゆる普通の経歴から著しく外れたのか悪いのか、僕の人間としての魅力が足りないのか、仕事は決まらず、やはり同じようになりふり構わずやりたい事じゃない仕事でも受け入れなければならないような状態のようです。


人生、生きていると良いことも巡ってくる。
確かに、それは事実だと思います。
けれど、それ以上の希望のなさと絶望が大きい場合、時折巡ってくる良い事なんて何の役にも立ちません。
陽はまた昇る。
そうでしょう。
明日は明日の風が吹く
そうでしょう。
しかし、この大地が自転することを止めた時、陽は昇ってきません。慣性のため空気はすべての建造物を壊すほどの勢いで僕らを打ちのめすことでしょう。
24歳から、すでに13年。随分と長生きしてしまったな・・・、と感じます。
今僕は病気を治さない、と言う形で色々な最後の抵抗をすることになるのかもしれません。何か一つくらいは自分で決めても良いよね。
病気を治さない。
これは誰のせいにもできない唯一無二の事だから。