ぱけちゃん、おしゃまなの。

ふざけながらも世間を切るんだ、はてなブロブ版

人の気持を感じすぎると、自分の気持がだめになることがある


「あの頃に未来に、僕は立っていない」Canon PowerShot S95 developed by DPP


どうしようもなく空が青くて、きれいで、なんて感情がのぼらないこの頃である。
感情として鈍ってもいるのだろう。はたしてやっぱり老化で水晶体が歪んでいて若い頃と同じように見えなくなっているのだろうか。
なかなか、老朽化激しいぱけちゃんである。


それにしても、yahooで何回も「ぱけちゃん」と検索するヤツは誰だ?
小っ恥ずかしいじゃないか。


それはさておき、震災関連の大事なことが欠落したような感じで日常生活に押し戻されているような気がする。
報道の仕方もあるのだろう。
ああいう報道を見ていると、絶えずアドレナリンが出っぱなしになり、なんだかそわそわとしてテレビから離れなれなくなり、正常な判断がくさせなくなったり、モニタを見るだけで何かをなしているような気分になったりするのだそうな。
そんな時こそ、すっとモニタから目を話して、そっとそこらに渦巻く雰囲気を感じ取って自分なりの判断をしなければいけないのかもしれない。


今年は本厄である。
事あるごとの通過儀礼、例えば成人式とか、結婚式とか、前の厄年とかこういう行事には全く関心もなく、むしろ否定的な感情を持ち続けているオイラなのだけれど、オイラが不幸であることに関しては自然の成り行きとして受け入れられるものだけれど、こうもたてつづけにいろんな不幸とか、良くない状況である身内の話を聞くと、
「はて、オイラの厄が周りを不幸にしている」
と感じられるようになる。
「こいつ自身が堪えないなら、大事なモノだったらどうだ?」
というような、拷問に耐えるけれど仲間が拷問にかけられるととたんに落ちる式な論理で、厄払いに行かなければならないな、などと感じている。


ドンドンと耄碌して、突っ張ることが無くなって、世間に丸め込まれていくようなことは全く我慢がならないのだけれど、
仕方がない、そんな年になってきたのね。